【風景写真を考える vol.4】 どこか遠くでなく、内なる風景を(1/3)

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経験を掘り下げる

12月に入り、あっという間だなって毎年思うけど、こうやってあっという間を繰り返してる間に老けていくんだろうなと焦っています。焦っているというのは、歳を重ねるたびにやっぱり傷が治りにくくなったり風邪治っても体力落ちたりするのと、フィジカルだけでなく精神的にもなんだか落ち着いてしまう。「まあ、いいか」とか「こんなもんでしょ」という妥協が誘惑してきます。でも、言葉や常識、物質のように変わらないものなどないので、ぼくもどこかに向かって行くのですが、それは深さへのベクトルにのせていけたらいいなと。

 

会社を辞めてから

老いというには大げさかもしれませんが、少なくともその予兆を感じるときに思い出すことがあります。30歳の時に会社を辞めてから半年ほど、裏磐梯(福島県)のペンションに居候させてもらいながら写真を撮っていた時期がありました。そこで静かに諭すように聞かされた言葉です。

風景写真は歳をとってからやるものだよ

 
その頃の目標は写真展を開催することでした。撮らないことにははじまらず、気持ちは先に行っていました。何となく分かる気がするというメッセージでしたが、それから5年経ちました。当時よりはるかに多くの写真展を見て、作家の話を聞き、世界の広さを知る度に「そうだよなあ」と頷く角度が深くなっていきます。

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薄くなる絶景写真

ここ10年で写真の役割が変わっていきました。例えば、絶景写真の存在が薄くなりました。そしてさらに薄くなっていくでしょうか。これらに関連することで東京旅人会の代表 狭間 純平さんが面白い記事を書いています。

>> 分かりきった感動をただ“確認する”作業になりつつある現代の旅について

旅をしていて、綺麗な絶景や世界遺産を見た時、「あれ、こんなもんか。予想以上に感動しないぞ?」って思う時ありませんか?

インターネットや本やガイドブック、写真は、もしかすると僕達の感動の幅を狭めているのかもしれません。

 
狭間さんはアンコールワット、マチュピチュ、ウニユ塩湖に行く必要はないと例え話をしていますが、海外旅行でここ数年で特に話題になったウニユ塩湖は「今さら行くの?」という印象さえあり、これは不幸かお笑い芸人の一発屋に似ています。そして、行ったこともないのに数年後「そういえばウニユ塩湖って、」と擬似旅行を懐かしむのでしょう。

実際にウニユ塩湖に行くとなれば行き先は日本のほぼ反対側なので、今までの旅行以上に多くの情報を仕入れ、準備をするはずです。おそらくそれらが、まだ見ぬ感動すべき絶景を既知で消化してしまう原因になるのでしょう。インターネット前提の生活の中で、はじめて知った時のインパクトはそう長続きしないのと、PCモニターを前にして手元で得た情報ほど希少性とありがたみ、つまり絶景写真の存在は薄くなっていきます。

もちろん、行きたければ行けばいいのです。でも、お誘いいただいた写真展やグループ展でそれらの写真を見ると、「ああ、これか」「やっぱりなあ」と正直言って興味の曲線が持ち合わせた以上の山を作ることはありません。そして、ピーク見ることないやるせない下山へと向かいます。行ったことなくとも誰もが知っている情報の範囲内にあるので仕方ないことです。

情報環境の変化によって絶景写真は唯一というAmazingから沢山のなかのひとつ、そこに居るという存在Beingに落ち着きました。

(このことを最近の身近な話題で例えるなら、目黒川「青の洞窟」ではないでしょうか。新しくはじまったばかりで、まだ見ぬイルミネーションは現地につくまでに情報の大半を得ていました。)

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どこか遠くでなく、内なる風景を

撮るのが簡単になっただけでなく、手元で膨大な情報を得られるようになり、テクニックや物理的希少性は求められません。そこでそもそもいい風景写真ってなんだろう?と原点を振り返るのですが、撮っている対象・絵柄以外に求められるものと、ヒントになるであろう風景をテーマとした見逃せない写真展を紹介します。

>> 【風景写真を考える vol.4】 どこか遠くでなく、内なる風景を(2/3)

 

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